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放送日 平成18年2月22日(mp3形式音声ファイルはこちら→)
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 放送内容は、著作権の保護を受けますので、個人でお聞きになる以外のご利用は出来ません。
ちょびっと
タイトル: 「京都大学農学研究科講師 吉田 鐵也先生をしのんで」
テーマ: 平成18年1月にお亡くなりになりました、京都大学農学研究科講師の吉田鐵也先生をしのんで、その追悼番組をお送りしました。
吉田鐵也(よしだ・てつや)先生の略歴
   1941(昭和16)年8月25日、釜座二条上ル(府庁前)に友禅の絵付師・友一(ともいち)氏の一人息子として生れる。青年期まで釜座二条で過ごし、生涯、京都に住み続けた。徴兵された父は1944年、中国で戦病死。学費を稼ぎながら府立朱雀高校、京都大学農学部に進学。
 1971(昭和46)年4月、京都大学大学院農学研究科林学専攻博士課程を中退し、同5月、京都大学農学部助手に採用される。1984年4月、京都大学農学部講師、1993(平成5)年3月、博士号(京都大学・農学)取得。1996年4月、大学院農学研究科講師。2005年3月、定年退職。1993年4月から亡くなるまで神戸大学工学部建設学科非常勤講師を務める。
 専攻は環境デザイン学(造園学)。学生時代から登山の経験が長く、里山の景観、墓園、庭園設計、公園の維持管理手法、住宅団地の外溝、環境心理学、街路と生活、子どもの遊び、市民農園、都市美、コミュニティ・デザイン等幅広いテーマに関心を持ち、近年は参加のデザインの実践を活動の中心にしていた。
 2006(平成18)年1月28日死去、享年64歳。


■最近10年間の学会・社会活動
 日本造園学会(学術論文集校閲委員)、日本林学会(学会誌編集委員)、日本都市計画学会、日本建築学会、農村計画学会に所属。子どもの遊ぶ権利のための国際協会(IPA)会員。
 尼崎市都市美アドバイザー専門委員、(社)農村環境整備センター農村環境計画検討地方専門委員、近畿地方建設局京阪連絡道路景観検討研究会委員、京都府農業農村環境対策指針策定調査委員会委員長、西宮市都市デザイン専門委員、京都府加茂町加茂駅周辺地区ふるさとの顔づくり計画検討委員会・景観ガイドライン策定委員会委員長、和歌山県紀の川流域下水道処理施設計画景観検討委員会委員長、阪神淡路大震災復興に関する(財)まちづくり市民財団(HAR)基金受領(第1〜3期)、加茂町瓶原地区での住民参加型ワークショップによる水辺整備・駅前周辺地区での街区公園・緑道の整備、京都市地域コミュニティひろば整備事業(14箇所)、住民参加型ワークショップによる堀川水辺環境整備構想策定等。また、住民のまちづくり等の支援活動は大阪、神戸、尼崎など多岐にわたる。


■著書・訳書(学術誌の論文、総説等省略)
造園事典(岡崎文彬編、共著)、日本都市計画史、1974年、養賢堂
造園技術大成(関口太郎編、共著)、墓園、1978年、養賢堂
遊び場のデザイン・ガイドライン(共訳者・中瀬勲)、1995、鹿島出版会
庭の意味論(共訳者・佐々木葉二)、1996、鹿島出版会

出演者:
佐シ:佐藤 正吾 京都大学 吉田研究室OB
佐ユ:佐藤 友一 京都大学 吉田研究室OB
中:中村 拓 京都大学 吉田研究室現役学生
絹:絹川 雅則 (公成建設株式会社)
ちょびっと
 放送内容については、無断使用を禁止させていただきます。この件についてのご連絡はこちらまで。  
絹: :まちづくりチョビット推進室!
************************************************************************
絹: 皆さんこんにちは。
まちづくりチョビット推進室の時間がやってまいりました。
本日は、いつものオープニングミュージック、元気なものと違って、少し静かに始まっております。
本日は、先日・・1月にお亡くなりになりました、京都大学農学研究科講師の吉田鐵也先生をしのんで、その追悼番組をお送りする手筈になっております。
いつものようにお相手は、私、公成建設まちづくりチョビット推進室の絹川でございます。
そして、今日のゲスト、お三方をまず紹介いたします。
吉田研究室のお弟子さん達、三人の方々に来ていただいております。
まず、佐藤友一さんです。どうぞ。
佐ユ: 佐藤友一と申します。よろしくお願いします。
絹: そして、佐藤正吾さん。
佐シ: もう一人の佐藤です。佐藤正吾です。
よろしくお願いします。
絹: このお二人は、研究室のOBと言う形です。
そして、現役の学生さんがおられてます。
中: 中村 拓と申します。よろしくお願いします。
絹: はい。今日は、吉田先生、吉田鐵也先生をしのぶという形で、追悼番組を企画いたしました。
皆さん、吉田鐵也先生のお名前、聞かれたことがあるでしょうか?
実は、“京都のまちづくり”と言うことに対して、吉田先生は非常に大きな足跡を残されたと、私自身は感じております。
そのことについて、リスナーの皆さんに知っていただきたくて、今日は吉田先生のお弟子さん達三人に来ていただきました。
「まちづくり」・・京都のまちづくりを陰で支えた偉大な研究者。
象牙の塔に閉じこもるだけではなく、町の中に入って、フィールドワークと言う形で、コミュニティで活躍された吉田先生の、人となりをお三人のお弟子さんに語っていただきます。
それでは、これから先は皆さんにマイクをお渡しいたしますので、よろしくお願いします。
どなた様からでもどうぞ。
友一さんから行きましょうか?
佐ユ: 私から?
絹: はい。
佐ユ: 先生の足跡と言うことで・・・
絹: はい。あっ、プロフィール!
佐ユ: プロフィールがまず・・・ねぇ。
絹: そうですね、プロフィールの担当は正吾さんでしたね。
佐シ: それでは、紹介いたします。
吉田鐵也先生は、1941年、昭和16年の8月のお生まれで・・・・根っからの京都の・・生まれも育ちも京都の方ですね。
佐ユ: そうですね。
佐シ: 子供の頃、お寺に一回行ってますけども、それ以外はほとんど京都市内で過ごされてます。
大学は京大なんですけれども、その前は朱雀高校ですね。
と言うことで、生粋の京都人です。
絹: お寺に行かれた?子供時代に。
佐シ: あっ、子供時代に常照皇寺(じょうしょうこうじ) でしたっけ・・・北の方の・・
絹: はい。京都の・・・
佐シ: 有名なお寺ですね。
あちらで・・・・まぁ、どういう理由でかは判りませんけれども、子供の頃行かれたと言うことで・・・
佐ユ: 疎開の意味もあったん・・・?
佐シ: 疎開はもう終わっているのか・・
中: 終わってますね。
佐シ: 5、6歳頃行かれたと言うことですので・・・
絹: はい。
佐シ: それで・・ずっと竹屋町(たけやまち)?
佐ユ: 中京区の梅屋学区・・
佐シ: 梅屋学区あたりに・・
佐ユ: あちらに過ごされたそうですね。
佐シ: 過ごされてて、と言うことですね、ごめんなさい。
それで・・京大が農学部と言うことで、林学を専攻されまして・・・
まぁ林学と言いますのは、森林のこと、山のことを研究する部門なんですけども・・
その中に造園という部門がありまして、これは公園であるとか、庭園であるとか、そう言ったものを造ったり、或いはその歴史を研究したり、或いはプランニングをしたりという部門です。
そこで、大学院に進まれまして、71年に助手、84年に講師となられまして、それ以降はずっと講師と言うことで過ごされています。
絹: 正吾さん、ありがとうございました。
僕が吉田先生の人となりを語るよりも、皆さんお弟子さん達に語っていただきたく思います。
それぞれ、吉田先生のエピソードを・・・特に京都に貢献された部分に焦点を当ててですね、ご紹介いただけませんでしょうか?
中: どなたから?
絹: どなたでも良いですよ。
佐シ: そうですね。先生は“まちづくり”というより、広い意味での言葉の中で言えば、特に「住民参加」でものを造ると言うことを中心に、後年はされていたと思われます。
まぁ、私も後年のお付き合いしかない訳ですけれども。
絹: 正吾さんは、確か博士課程まで行かれたんですよね。
佐シ: そうですね。はい。
絹: 吉田先生の元で。
佐シ: はい。ですので、付いたり離れたりしながら、足かけ10年か11年ぐらいは、一緒でしたね。
それから、佐藤友一君はもっと古くって・・
佐ユ: 私は90年に大学来てますので、92年頃から研究室に出入りしてたんですけど・・
佐シ: 14、5年・・
佐ユ: いや、途中でですね、卒業・・大学院卒業して就職したりしてますので、一時期、離れてた時期も有るんですけども、まぁ縁有ってと言うかですね、仕事を辞めてですね、その後、又先生と一緒にプロジェクトする様なことになりまして。
で、そのままずっと、京都のまちづくり活動にですね、一緒にやってきたという感じですね。
絹: さてその、吉田先生が関わられた、まちづくり活動の具体的なイメージについて、語っていただけませんでしょうか。
佐シ: そしたら、そうですね、私から・・じゃぁ。
絹: はい。正吾さん。
佐シ: プロジェクト名で言いますと・・・それまでに個人的に先生が関わられていたプランニングのものは沢山あると思うんですけども、所謂、住民さんで・・こう、集まってわいわいやる、って言うのをやり出したのは、ほんのここ・・10年とか12、3年だと思うんですね。
それまではどちらかというと、そう言う・・・・なんて言いますか・・事を研究していると言うか、勉強会のようなのを作くって・・・それは佐藤友一君が関わってたものですけれども・・そう言う事にまぁ、むしろ熱心であったと・・・
で、95、6年ぐらいからですかね・・・相楽郡の加茂町と言うところで、府営の事業がございまして、そこで住民さんと一緒にやると言うようなことを、本格的にやり始めまして・・・
絹: 府営の事業。京都府の・・・
佐シ: はい。そうですね。
農業用水・・歴史的に、すごく伝統的な用水路があるんですけども、それを改修するという事業で、水辺と言うことでまず関わっています。
絹: 歴史的に古い用水路があったと・・
佐シ: はい。
絹: 加茂町に。
佐シ: はい。
絹: それを再生、修景するのに、普通だったら専門家だけでやりますよね。
佐シ: そうですね。
絹: それを、近隣の・・って言いますか、加茂町の住民の方々と共に、どの様に計画するというようなことを先生は・・・その計画自体に関わられた訳です。
佐シ: そうですね、はい。
たまたま、府営の事業で、京都府さんの調査事業がありまして、その中で住民さんも採り入れてはと言う意見が、他からもあったものですから・・たまたまそこに被さったと言う形ですね。
絹: それが12年・・12、3年?前?
佐シ: もっと古いです。
絹: もっと前ですか。
佐シ: はい。平成7、8年ぐらいですかね。
絹: 古いですね。
佐シ: そんなこんなで、たぶん手応えを感じたのは、そこからじゃないかと思うんですけども、その前にもたぶんチョコチョコやってはったと思うんですけども・・・(笑)
佐ユ: 震災がらみですね。神戸の方に行かれてまして・・・
そこも、町内会の意思統一のお手伝いとかされてたんで、そのあたりからフィールドに入っていってたのかなぁ・・・と言う気もしますね。
絹: 神戸の大震災の後に入られたんですか、吉田先生は。
佐シ: そうですね。
絹: 町内会の意思の意思統一と言いますと?
例えば、真野地区とかそんなとこですか?
佐ユ: 真野地区はたまたま、私が行ってですね・・
絹: はい。
佐ユ: 先生は、もっと・・須磨の方に入ってたんですけども。
絹: あっ、そうですか。
佐ユ: 震災後にですね、区画整理とかですね・・
絹: はい。
佐ユ: そう言う整備事業がはいる・・それがですね、大きな道路を通すためのものなんじゃないか、と言うことで・・・
そうすると、住民さんは立ち退きを迫られたりですね・・・
絹: はい。
佐ユ: 元の場所に戻れなくなるわけですよね。
絹: うん。
佐ユ: そこで、じゃぁ町内会として、こういうのにどう対応しようかというあたりで・・・
まぁ、いろんな意見がありますんで・・
絹: はい。
佐ユ: それをまぁ、まとめていくと言う仕事をされてましたね。
絹: はぁ・・・我々の言葉で言う「ファシリティーター」と言うような形で・・・
プロジェクトリーダーみたいな形でされていたんですね。
佐ユ: えぇ、えぇ。そうですね。
絹: もう、非常に難しい仕事ですよね。いろんな方の利害が・・・
相反する、行政と住民の人と・・その調整みたいな・・・
佐シ: いや、そこまでは行ってなかったかなぁ・・・
佐ユ: どこまで出来たのかって言うのは、ちょっと・・・
私はですね、その頃は一応現役の学生だったんですけども・・ちょうど修士の時代で、私はたまたま、先ほど言われた真野地区の方へ行きまして、先生とは別に、独立した活動を始めてしまったんですよ(笑)。
絹: はい。
佐ユ: ですので、ちょっとね、須磨の状況が・・外で見ているという感じになってしまった・・・
絹: 私は吉田先生、吉田鐵也先生との出会いと言いますか、京都で活動されている事例しか知りませんので、須磨で、神戸で震災の後もそうやって入ってられたの、始めて知りました。びっくりしました。
佐シ: それは、先ほども言いました様に、町内会とか自治会のお手伝いをすると言う形で、具体的にものを造るという事ではなかったと言うことで・・・
その後は、あんまり行ってなかったのかなぁ・・
絹: さて、中村 拓さんという、現役の方がおられるんで、その方にも登場していただかにゃならんのですけども、ちょっと僕、乱入させてくださいね。
進行役なんですけども、吉田先生、或いは吉田研究室について、鮮烈なイメージって言いますか、言葉を聞いたことがあります。
私の知り合いと言いますか友人で、京都市の職員で、「コミュニティ広場再生事業」と言うのに関わっていた、“片山さん”と言う方がおられます。
「コミュニティ広場再生事業」と言うのについて、まずは説明しなきゃいけないんですけれども、それは後ほど語っていただくとして、京都市のまじめなって言うんですか、非常に熱い行政マンである片山氏は、かつて吉田先生と吉田研究室のことを、「分身の術が使える研究室だ」と・・・
「マンパワーは限られている・・ところが、彼処此処に現れて、まちづくりの種を蒔いて、サッと消えてサッと現れて、何という行動力だ!」
と言って、行政マンは吉田先生と吉田研究室のことを「分身の術が使える程すごい」、と言うことを言っていた時期がありました。
それが僕はすごく、印象に残っております。
で、説明をすっ飛ばしました、「コミュニティ広場再生事業」。
我々の中で、コミヒロ、コミヒロと略称しておりますが、そこにおける吉田研究室の貢献をちょっと語ってくださいな。どなたか。
佐ユ: これは・・正吾さん。
絹: あれは幾つ?全部でやったの。
佐シ: 当初決まっていた事業ですね、三年間という枠内では13箇所ですね。
まぁほぼ、各区毎に、各行政区毎に行って、それからもう一つ、絹川さんも関わられてた(笑)、あの・・
絹: 山科の・・
佐シ: 山科の・・
絹: 草田・・
佐シ: 草田の音羽夢ひろばと言うところですね。(こちらもご覧下さい)
それを入れて14箇所有りますね。
絹: 絹:皆さん“ちびっ子広場”って言う言葉をお聞きになった事があると思いますが、コミュニティ広場って言うのは、実は“ちびっ子広場”が進化したものなんです。
そのあたりについて、専門家の皆さんどうぞ。
佐シ: ちびっ子広場と申しますのは、普通の都市公園法で決められた、きちっとした公園・・都市公園というわけでは無くって、遊休地ですね・・・
主に公共の遊休地ですとか、お寺さんですとか神社さんですとか、そう言うところの境内を借りたりとかですね・・
そう言う民有地等も借りたりしながら、子供の遊び場を確保しようという・・・
そう言うのが、昭和で言いますと、41、2、3年ぐらいですかね。
高度成長期、子供さんが沢山多かった頃に、わぁっと有りまして、市内には4〜500ぐらい、ダーッと出来たと言われてます。
絹: 4〜500ですか?
佐シ: はい。500近くあったと思います。
絹: 確か・・交通戦争って言うような、懐かしい言葉がありますけれども、子供達が路地裏で遊ぶのが危ないぐらい、車が増えちゃって、それをなんとかしようと言う発想の元に生まれたもんでしたね。
佐シ: そうですね。はい。まさしく・・・
ですんで・・京都は小学校を地元の方が自分で造ったりとか、そう言う伝統があるんですけれども、“ちびっ子広場”もやっぱり、地元の方が、何とかそれをしようと言うことで、狭い街路を囲ってですね、子供さんの遊び場を確保しようとしたと・・・
それがまぁ、京都の場合は土地が狭いので、公園・・・立派な都市公園というのはなかなか造れないと言うときに、その代替措置として・・住民さんが自分で管理するという事で、行政が補助を出すという・・そう言う制度ですね。
絹: はい。
ところが、ところが。4〜500有ったちびっ子広場が、かつての役割を終えて・・・
ちょっと、こう・・くたびれ果てた、と言うような時代が来るわけですね。
佐シ: そうですね。やはり、少子高齢化と言うこともございますし、子供さんの遊びも変化してますし、それから・・当時の管理運営を担っていた方々も、世代が変わっていくと、言うことで・・施設の老朽化もありまして・・そう言うことも相まって、どんどん減っていきまして、そのコミヒロの事業が始まる頃には・・97年ぐらいですけれども・・その頃にはもう270〜80ぐらいに減っていたと・・言うことですね。
絹: 現役の学生の中村 拓さんも、そう言うコミュニティ広場の再生事業に関わられたんですか?
中: 僕は直接は関わっていないんですけども、出来たものというか・・ものと言ってしまったら、難しいかもしれないんですけれども、そこを何度か、見せていただいていて・・・
パット見は、本当に普通の公園と言ってしまったら何ですけれども、ちびっ子広場・・何処にでもありそうなもの・・まぁ、ちょっと綺麗かなぁと言う・・・イメージがあるんですけれども、何かがあったときに、人がワァッと集まって来るんですよね。
絹: うん。
中: 最初僕は何も分からない状態で、そう言うのを見せてもらっていて、「なんでかなぁ?」という・・不思議に思ったぐらい、何かイベントが有れば、「こんなに人が来るんか!」と言うぐらい・・・
まぁ、ちっちゃかったり大きかったり、色々するんですが、でもそこに、「ワーッ」と人が押しかけて来る。
それが何かこう・・多分、吉田先生が病みつきになったというか、絶対必要やなぁと思った、こぅ住民参加と言うか、そういう力やったやろなぁ、と言うのをすごく最初、ちびっ子広場を見て、実感しました。
絹: ハードとしての、出来上がったコミュニティ広場、ちびっ子広場が綺麗になったものだけ見てたら、判らないけれども、そこに人が・・何かイベント事があったりして、人が、ものすごい数の人達が集まってくると、言うところに、中村 拓さんは「吉田マジックがそこにある」という風に感じたわけですね。
中: そうですね。ビックリしましたね。
そこから僕もそう言う世界と言うか・・に、勉強しようと言うか、足を突っ込みましたというか(笑)
絹: そうですね。
中: と言うところですね。
絹: さて、いみじくも「吉田マジック」と言う言葉を吐いてしまいましたが、そのマジックについて語って・・解説をしていただけませんか?
佐シ: 先生が・・・と言うか、我々もものすごく・・今指摘がありましたけれども、「何で、こう人が集まって来るんやろ?」と言う話ですよね。
先生というか、私たちが重視してたのは、やっぱりこう、ものを造るという事をみんなで一緒にやるとかですね・・・
それから、もう一つは、なるべく近隣の方にですね、迷惑がられていたも、お声はかけると・・ごめんなさい(笑)。
声はおかけすると・・言うようなことはやるというのが、ポイントになるのかなぁ・・
その中で、徐々に徐々にこう・・なんて言うんですかね。
小さな広場だけれども、やっぱりこう、関心を持った人というのは、潜在的に沢山いるわけで、そう言う人達を掘り起こすことが出来るという事ですかね。
それをうまく、3年間なり4年間なりの中で、徐々に作っていったという事かなと思います。
絹: 最盛期の、吉田研究室のマン・パワーって言うのは、何人おられたんですか?
佐シ: そうですね。最盛期は第二期目・・二年目で6箇所をやってますので、その時はもう、それこそすごい人数が関わって・・・
佐ユ: 私も実は二期目からなんですよね。
絹: はい。
佐ユ: 途中から参加という訳で(笑)。
佐シ: 我々だけでは無くって、名前を挙げればきりがないですけども、尾島、永橋、沢田、長瀬、それから留学生でアロン・イスガーとかですね・・・
絹: アロン・イスガーさんって、何処の国の方ですか?
佐シ: アメリカの方です(笑)
えーと・・まぁもう、とにかく沢山の方が関わっています。
柳原、小野・・・この小野君って言うのは、先生の一番愛していた(笑)学生ですけども・・
佐ユ: コミヒロ事業自体も、二年目はね、六カ所同時にやることになりましたしね。
絹: その、吉田マジックと言いますか・・・見た目には、ちょっと・・どう言うんですかね、うらぶれたちびっ子広場が新しいものに変わったよ、って言うことだけなんですけれども、そのコミュニティ広場再生事業の持つ意味って言うのは、佐藤さん達、中村さん達の言葉で、言い換えていただけませんでしょうか。
パラフレーズと言うか・・どうぞどうぞ。
佐ユ: 難しいです・・・とにかく先生、一番こだわっていたのはですね、「手作り」ってことに、本当にこだわってましてね・・・
再生するプロセスに、必ず手作り作業を「入れろ」「入れろ」って言う風に、口酸っぱくして言ってまして・・・
住民さんと共に管理する人自身が、作るときに直接手を下して関わることで愛着が生まれて、より良く・・その後もみんな管理に関わってくれるって言う・・・そのあたりですね。
絹: そうですね、一つ具体的な例を喋ってもらうと判りやすいかもしれませんねぇ。
印象に残っている広場、どれか一つ・・ベストツーでもベストスリーでも良いですよ。
挙げてください。
佐シ: いやぁ・・それは、何処も感慨深いですけどもねぇ・・・
まぁ、一年目にやっぱり・・我々も新しい事業ですので、手探りの状態でしたけれども・・・
やっぱり・・・行政の方・・京都市ですね。
京都市の方も、意気込んで行かれますし、我々も意気込んでいくわけですけども、住民さんに必ずしも、すっと・・ワークショップってなんや?とかですね・・そう言うこともありますし・・・
必ずしも、すんなり行くと言うことばかりでは無かったという風に考えてます。
その中で如何に、信頼関係作っていくかと言うことなんですけれども・・・
行政の中にも、ものすごく熱心な方もおられましたし、先生自身もなるべくこう・・嫌がられても顔を出すと、ねぇ(笑)
「何でこんなに解決すんねん」って言う感じで言われても、会議をして繰り返し繰り返しやっていく・・・
そう言う中で信頼関係なんか・・・
佐ユ: 会議だけじゃなくて、その後にですね、お酒を飲みに行くって言うのも、沢山しておられましたね(笑)
中: なんと言ってもお酒ですよね。先生は(笑)
佐シ: まぁおそらく死因も、酒ではなかったか(笑)と言うことなんですけれども・・
中: 倒れる数日前も、僕は飲んでおりました(笑)一緒に・・・
佐ユ: 未だにですね、春の桜を観賞する会をですね、地元のちびっ子広場でするときにですね、呼んでいただいたりとかする広場は、幾つも有りますからねぇ・・・
絹: えーっと、ここで、もう一つ乱入させてくださいね。
都市計画課の友達が自嘲的に、かつて僕に語ってくれた事があります。
都市計画課の専門家が、公園法に基づいて公園を造ると、「公園が公園で遊んでいる」と言う陰口をたたかれる事があると、語ってくれた専門家がいます。
ところが、吉田研究室が関わられたコミュニティ事業、コミュニティ広場再生事業・・
かつて、ちびっ子広場と呼ばれたところが使われなくなって、朽ち果てていくものを再生していく中で、そこに関わられる人・・それを再生するのに手作りで参加したって言うのが、しこたま近所にいるわけですよね。
吉田研究室が降り立った場所・・その行政マンがそこへ汗を投入したところへは、新しく、熱いコミュニティも生まれ出でたんではないかと言う風に、僕は勝手に観測していますが・・・
例えば、ブルーベリーガーデンだとか・・・ブルーベリーガーデンって何処でしたっけ?
佐シ: 右京区・・
絹: 右京区ですか?
その御近所さんなんかは、すごく熱心に、今もお手入れなんかされているんじゃないですか?
佐ユ: えぇ、そうですね。
我々のメンバーでは、ブルーベリーに直接タッチしていないんですけれども・・・
ブルーベリーだけじゃないですよね。
絹: そうですね。13?14?
佐ユ: 他にも・・電車公園もそうですし。
絹: 電車公園?
佐シ:
佐ユ:
電車公園。
絹: 電車公園って電車があるんですか。
佐シ: そうですね。市電の・・・
絹: それは場所は何処ですか?
佐シ: 西京の樫原ですね、あれは・・・
絹: その樫原エリアの住民さんも、すごく熱心にワークショップだとか、計画だとか、実際の施工にも携わって下さっているんですか?
佐シ: そうですね。
絹: さぁ、この音楽が鳴り始めたと言うことは、あと三分でこれを閉じなければなりません。
そろそろまとめに入っていきたいんですけれども・・・
実は吉田先生の業績って言うのは、30分のこの短い時間で語り切れないぐらい有ります。
きょうは、コミュニティ広場の再生事業と言うことだけに焦点を合わせましたけれども、他にも沢山あります。
ですけれども、京都大学の農学研究科の吉田鐵也先生、それを慕うお弟子さん達、ここに来てくれてますけれども・・
1月に亡くなられましたけれども、私が見る限り、京都市の“まちづくり”と言いますか・・僕は“まちづくり”は人と人とを繋ぐコミュニティの温度を上げる事が、一つの“まちづくり”だって、定義することが出来ると思います。
13から14の荒れ果てた広場を、吉田研究室が落下傘のように風の人として降りたって、再生をお手伝いした。
そのことによって、それぞれの地区の市民の・・住民の人達がそのコミュニティ広場を核に、再び又色々討論をしたり、喧嘩をしたり、仲直りしたり・・・或いはバーベキューパーティをやったり。
いろんな事をされてます。
ホントに語り尽くせない、吉田先生の功績ですけれども、京都を・・この京都って言うのは、色々、吉田先生を筆頭にそう言う“まちづくり”に関わる“まちづくりおじさん達”がいて、地道にやってるんだ、と言うことを皆さんに是非知っていただきたくって、今日の追悼番組を企画いたしました。
さて、今日のお話いかがでしたでしょうか?
この番組は「心を建てる・公成建設」の協力でお送りしました。
吉田研究室のOBの皆さん、現役の中村 拓さん、佐藤友一さん、佐藤正吾さん、ありがとうございました。
佐シ:
佐ユ:
中:
ありがとうございました。
絹: みなさん。又お耳にかかります。
ありがとうございました
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